鈴鹿山脈概説
知多自然観察会 大嶋 洋平
当会員の皆様におかれましては、益々御清栄の事とお慶び申し上げます。
先日、降幡氏より「イワザクラの調査報告」の提出を求められた事に併せて、微力ではありますが、当方、週次で鈴鹿山脈の自然を観始めて2年が過ぎようとしており、ここに、簡単ではありますがその報告を提出させていただきます。

鈴鹿山脈は南北60キロ、東西20キロの山域でちょうど「中央アルプス」の半分の山域と考えていただければ面積的な拡がりが理解していただけると思います。「藤原岳」に代表される北部石灰岩地帯は、多様な草花、「御在所岳」に代表される中南部花崗岩地帯はツツジ科の花が確認されております。本州最狭部に位置し、日本海式気候の影響を受けるため、厳冬期には年により積雪が2メートル近く認められ、「御在所岳」の年平均気温は「札幌」のそれを下回ります。

滋賀県側の「スミレサイシン」、全山に認められる「タニウツギ」は本来は日本海側に自生するのが一般的ではあります。「タキミチャルメルソウ」、「スズカカンアオイ」そして幻の花「イナモリソウ」などは鈴鹿山脈の固有種としての性質が強いようです。
標高的には、700メートル近くまで、シイ、カシ、ツバキの常緑帯が続きそれ以降は、ヤシオ類などのツツジを中心とした落葉樹に変遷して行くようです。
鈴鹿山脈と言うと、三重県の山と考えられがちではありますが、その半分は滋賀県の山と考えていただいてもいいでしょうし、急峻な三重県側に比べると山の懐も深く何処から入山しても、そこに行き着くには今でも「徒歩」以外の手段はありません。
そして、そこにこそ「自然」、「歴史」、「風土」あらゆる鈴鹿山脈の魅力が今でも封印されて残っています。

鉱山場、炭焼き窯の周辺に散乱した茶碗の欠けらや、一升瓶の欠けら、そして「萌芽更新」により高さ1メートルから奇形樹となってしまったトチの木などはおそらく炭焼きの材料とされたのでしょう。そして、第二次世界大戦中に強制労働と殺戮の現場となってしまった「愛知川渓谷」の核心部。そこは、あまりにも美しく「イワカガミ」が咲き乱れ、しばらく行くといまでも「ヤマシャクヤク」が群落として残存する静寂の谷になっております。
そう、滋賀県側は「愛知川」の本、支流を中心とした「沢の山」でもあります。その美しい「渓相」は神秘的ですらあり今では「アマゴ」が放流の影響で優占種となって
いますが、昭和30年代後半までは30cmを超える「イワナ」がかなり釣れたそうです。
昭和30年代に400年も続いた末に廃村となった「茨川村」、江戸時代の初期には湯の山温泉街に移設された「三岳寺」は信長の抵抗勢力としてかなりの「僧兵」を有した寺でありますが、その「鐘突き堂」の痕跡がいまでも山中に残っており「三岳寺」の建立は西暦807年とされています。
そして次は、湯の山温泉街でしょうか?最近では、すっかり廃墟が目立ってきています。あまり知られていませんが、志賀直哉が愛した場所でもありました。長逗留して、あそこで作品を書いていたようです。

古くから、鈴鹿山脈は東西交通の要所として峠や間道が発達し、炭焼き、鉱山、木地師の労働の場として人間と関係の深い山域でもありました。現在もなお山麓から深山にいたるまでその痕跡が見られます。
貴重で美しい自然が残る反面、低山が故に人間に利用しつくされた悲しい山域でもありますが、今後も週次でトボトボ歩き続ける所存であります。
尚、「自然」、「歴史」、「風土」、「登山」の面から情報をお持ちの方は、お知らせいただければ幸いであります。